2021年10月27日水曜日

気候変動とコロナ禍

 当時ウルグアイの大統領だったホセ・ムヒカ氏が国連で気候変動の取り組みについて演説を行ったのが2012年。本当の豊かさを訴えて、経済成長至上主義の社会を批判。日本では大きな話題となりました。

しかし現在、そのことを覚えている人はどれくらいいるでしょうか。その時にされた問題提起は世界中にスルーされたまま。

コロナ禍で、不可能と言われていた様々な規制が行われ、世界の経済成長の速度は大幅に落ちました。

経済活動に大きな影響を与え、職を失う人も多数に上りましたが、一方で地域によってはスモッグで覆われた空がきれいになるなど自然環境へはプラスの影響を与えています。

「西側先進国のような生活を発展途上国も行ったとしたら、地球はその負荷に耐えられるのか。」

所得の格差問題を語る人は、目の前の格差だけを語りますが、限りのある地球の資源を考えた時に、経済成長ありきでは格差は永久になくならないことははっきりしています。経済格差だけに留まらず生存格差が発生していますが、それがさらに国や地域をまたいで蔓延することになるのは目に見えています。

ウイズコロナと言いながら、以前のような経済成長を求める政策が支持され続けるなら、争いの種を蒔きながら、いずれ地球は人の住めない星になるのでしょう。

関税のない自由貿易は富の偏在を産みます。

過去に日本が驚異的と言われる速さで経済復興を成し遂げたのは、東西冷戦や朝鮮戦争といった世界情勢の中、関税をうまく使い国内産業の保護育成が出来たからでもあります。

世界の国の間の格差をなくすのであれば先進国優位の自由貿易ではなく関税をうまく使うことが出来る仕組みを作ること。

地産地消の経済が広がれば、輸送にかかるエネルギー消費は抑えられます。

世界が相互に関税をかけることを行えば、海外生産のメリットが無くなり自国生産を行うことで物価は上がりますが、雇用も増えるでしょう。

今必要なのは、これまでの経済成長至上主義を止めること。

コロナ禍は、そういう選択肢を考える機会を与えてくれたと考えることもできます。

2012年から何も変わらなかった世界をコロナが変えた。

世界はこれまでの方法でしかやってこなかったから変えることが出来なかったけれど、コロナは無理やり不可能と言われることを可能にしてしまった。

今の世界が、これまでの方法の延長でしか考えないのであれば、気候変動を変えることは出来ないだろうと思いますが、今聴こえてくる世界中の政策は、コロナ以前に戻すこと。同じ方法で経済成長を目指すことしかないようです。

世界のリーダーと呼ばれる国や人たちは既得権益を手放すことはないし、多くの人々も今日の続きの明日を望んでいるからでしょう。

そうして金銭的な豊かさ、便利さと引き換えに暮らすことが困難な環境を作り出すのです。

2021年10月3日日曜日

【カブールの本屋 アフガニスタンのある家族の物語】アネス・セイエルスタッド著 江川紹子訳 イーストプレス 2005年7月15日初版第1刷発行

アメリカ軍のテロ組織掃討作戦でタリバン政権が倒れた後のアフガニスタンで本屋(著作権も何も規制がないので海賊版の出版業を含む)を営む男と、その家族の生活を描いたノンフィクション。

タリバン政権下で禁止されていた音楽や動物や人の写真の印刷された書籍、女性の労働などが解禁されても延々と続いてきた社会の習俗は残り、それがまた今タリバン政権が復活する要因となっている。そんな風に感じました。

著者は非イスラム教徒の白人女性であるため、女性としての立場とは別に、男性の中に入っていっても排除されることはなかったと言います。

そうした状況でその家族の話を聞き、取材したもので、その家族の長であり本屋の主人は敬虔なイスラム教徒であるわけではありませんが、イスラム教の家族の在り方にこだわります。女性たちも、そうあるべきと考えながら、しかし理不尽さも感じています。

男性の立場からすれば家族を守っている。女性の立場から見たらモノや召使のように扱われている。

宗教の如何にかかわらず、父権の強かった時代、どこでも同じような事があったのでしょう。男女、それぞれの役割が分かれている社会では、そうなるのかもしれません、

また、強すぎる一族主義は対立を生み武力を容認する社会は変わらないんだろうな。

女性を大切にしない社会は女性が埋めれることを良しとしない世界。でも、イスラム社会だって女性がいなければ存在できないのです。

それぞれがそれぞれを尊重できる社会が生まれなければ、争いも終わらないと思うのですが。

2021年9月21日火曜日

リサイクル?

 「リサイクル率を上げましょう」「この商品はリサイクル原料を使っています」

一見、正論で環境保護に熱心なように思えますが、本当にそうでしょうか。


かつて、ペットボトルが現れた時に環境保護団体が資源の無駄遣いだと反対していましたが、人は利便性を優先してペットボトルが当たり前の社会になってしまいました。

そのペットボトルをリサイクルすると言っても、それを回収し、再処理する作業は環境にやさしいのかと言えば、そんなことはないでしょう。

ペットボトルが普及する前はリターナブル瓶。その昔は通い徳利のようなものを使っていました。大量消費の時代に通い徳利じゃ商売にならないし、リターナブル瓶は重いから配達コストもかかるし、回収して洗浄消毒して使うのも手間。それでよいのでしょうか。


ファストファッションも、毎シーズン新しい洋服に買い替えさせることで利益を上げています。リサイクルしますと言っても、そもそも毎シーズン買い替えなくてよい洋服を作れば随分環境負荷が減りますね。


無駄遣いすることを経済を回すと言って、環境負荷をかけることを効率化や利便性と言ってごまかしてはいないでしょうか。

2021年9月3日金曜日

【有機農業で変わる食と暮らし ヨーロッパの現場から】香坂玲・石井圭一 共著 岩波ブックレットNo.1044 2021年4月6日第1刷発行

 著者が農水省の研究委託事業として2018年からドイツ、オーストリア、フランスにおける有機農業の動向を分析したものを日本における有機農業のあり方として問題提起したもの。

フランスは言わずと知れた農業大国だし、ドイツも農業は盛ん。オーストリアの農業はイメージがなかったけれど、有機農業が一般に認知され広がっているとか。

確かに有機農業は農薬を使わないという点で農薬を作ることによる環境負荷、使用することによる環境汚染に対して有効だし、栽培する人、摂取する人の体にも良さそうなイメージがある。

しかし、なぜ農薬や化学肥料を使うのかという事をちゃんと理解して。それを上回るメリットを示さない限りうまくはいかないだろうなと思う。日本の有機農業の比率が高まらないことを見ればわかる話で、それを無視した報告ならば実効性は無いに等しい。

また、将来、食料案が予想されたんぱく質を得るのに昆虫食が…とか、穀類の生産が足りなくなると言われる中で、有機栽培を進めるとすると収穫量が劇的に上がらなければ世界は飢餓に苦しむことになるだろうし。

農薬の使用や化学肥料や人工飼料を使った畜産などで排出される地球温暖化ガスと土壌汚染に対して貧困と飢えの問題で、どうバランスをとるのかって問題で、単純に有機農業を広めようってのはあまりにイノセントな話。実のある研究とは思えないな。

しかし、化学大国で巨人バイエルの本拠地ドイツで化学肥料を使わないことで補助金が出るというのは、政府の政策に理念があるなと感じた。日本ではまずできないだろうな。


2021年6月24日木曜日

晴耕雨読 これからの働き方の話

 世の中、AIが進化して人の仕事がどんどんなくなるという話をする人がいる。

実際、仕事をしていて何かというとエビデンス(根拠・証拠)を求められることが多いから「慣例に従って」という思考停止な仕事をしていたらなおさらだ。エビデンスの集積で判断するのがAIなので、近い将来そういう仕事を人がやることはなくなるのだろうなと思う。

仕事が無くなったらどうするかという心配があるが、日本などは少子高齢化で人口が減っているし、もともと国土だけで養える人口はそれほど多くないから、かえって好都合であるかもしれない。

人の仕事は「慣例に従って」いればいい仕事は速やかにAIを導入して人手が足りない分野にシフトするのだろう。

イギリスのSF小説の大家アーサー・C・クラークの代表作の一つ「幼年期の終わり」は、異星人に管理され、高度な科学技術を与えられた人類は働かなくても生活ができ、創造的な仕事を、行いたい人がやるという世界で、人類が次の進化を迎えるという作品だけれど、実際には生活コストをどう賄うのかが問題。最近議論されているベーシック・インカムというのは、生活するのにコストがかかり、そのコストを取り込んで沢山稼ぎ納税する人がいて、それを再分配するから成り立つ話で、社会全体が働いても働かなくてもいい…つまり再分配するものが存在しない可能性があるのでは成立しない。

つまり、稼ぐ人は沢山稼いで納税し、それを原資に最低限の生活費が支給される…将来の社会はそうでなければ成立しないのではないかと思う。ただ、そこに差別や偏見があってはならないし、稼ぐ気があるのに出自や生活環境が許さないという事が起きてもいけない。

人が生活する上の経済の仕組みとして格差が生じるのはやむを得ない。格差解消のためだけの仕組みを作れば機会損失が生じて再分配できる富が減り、社会全体が貧しくなるのではないだろうか。

理想的な社会主義・共産主義が成立していない理由はその辺にあると思う。

将来的に人のやる仕事が減ることは確実な中で、一握りの稼ぐ人以外はどう生きるか。

機械でもできるが、ある程度高性能でなければできないから、人がやった方が安い…実際そういう仕事が今後ますます増えていくだろう。しかし単純作業はやりがいを見つけにくいし、何しろ賃金も安い。一握りの金儲けができる仕事は既存の組織に入ろうとすれば競争が激しく、自分で起業しようとすれば、能力と幸運が必要だ。

単純作業ではなく、自分の裁量が出来る仕事。その裁量がAIに取って代わられる社会で、いずれ何もないところから創造するという事は難しいもの。その仕組みを握る人以外は意味の感じられる仕事をすることは出来なくなるだろう。

そういう意味で自分の裁量が出来る仕事は、一人の人間として敵うことがない自然を相手にするという事なんだろう。産業としてではなく生活としての農林水産業。

晴れれば畑を耕し、雨が降れば本を読んで学習する。そういう生活が再評価される時が来るのではないだろうか。

2021年5月11日火曜日

【酒の飲みようの変遷】柳田國男 著1939(昭和14)2月「民族と酒」として発表

 これが書かれた時代、日中戦争の頃に酒の乱用が起こったという状況が背景にあったとのことで、柳田國男と同じ民俗学者である折口信夫の研究者 長谷川政春が次のようにこの論を要約しています。

「一つの盃による仲間うちでの廻し飲みが、平素の結束を確認するのに役立っていた。だから酒は近世以前には、一人で飲む風習がなかった。したがって、小さな猪口が出現するのは新しいことであった。また毎日飲むこともなかった。元来、神祭りに神と一つに連なることを求めて神に供え、その後に頂いて飲むものであった。ところが四斗樽の発明による運搬の容易さ、可能になった貯蔵、飲む機会の増加、その上に前代よりも味も色もよく、酒の質も上がってきたために嗜好品として迎えられるようになった。ここに酒の乱用の条件が揃ったわけである。それゆえに、飲酒の変遷を捉えて、どうあるべきかの回答を捜さなければならない。と結ぶ。」(遠野物語 集英社文庫1991年12月20日第1刷 解説より)

「元々たいしてうまくなかった酒は、神や人との結びつきのために飲んだものであり、みんなで飲むのが当たり前であった。美味しい酒が造られるようになり、またいつでも飲めるようになったわけで、酒は何のために飲むべきなのかをちゃんと考えるべきだ。」という事なのだと思います。

そして次のような文で締められています。

「いつも民間の論議に揺蕩せられつつ、何らの自信もなく、可否を明弁することすらもできないのは、権能ある指導者の恥辱だと思う。」

柳田國男は貴族院書記官長や国際連盟委任統治委員などを経験していますから、政府について歯がゆい部分があったのでしょう。ひょっとすると、酒にかこつけてこの一文を書いたのかもしれません。

その指摘は現在の新型コロナウイルス対応に通じるものがあり、人はなかなか進歩しないものなのだなと実感します。


2021年4月27日火曜日

【THIS IS JAPAN 英国保育士が見た日本】ブレディみかこ著 を読んで考える人権

 著者は日本で生まれ、音楽好きが高じてアルバイトと渡英を繰り返して現在はイギリスで保育士をしているとう方。Yahoo!ニュース|本屋大賞2019ノンフィクション本大賞受賞作品で息子の体験や感じたこと描いた「ぼくはイエローでホワイトで、ちょっとブルー」をとても興味深く読みました。(その息子に自分が言った言葉を本のタイトルにして…と突っ込まれたとか)


さて、この作品は20年ぶりに日本に長期滞在し取材をしてイギリスと日本の違いを人権や格差という視点からルポルタージュしたもの。

人権は英国では誰もが生まれながらに持っているもので、子供でも主張するのが当たり前。日本では権利を主張する前に義務を果たせと言われ、自立しなければ主張してはいけない義務とセットで捉える人が多いと語られています。

“はじめに”に著者は日本でも存在しながら目を背けられていた貧困層の生活の体験について語ります。一億総中流と言われバブルに沸いた時代に貧困家庭に生まれ育ち、定期代を稼ぐためにアルバイトをすれば、先生から「そんな家庭があるわけがない」と否定される。

著者のプロフィールには音楽好きが高じてアルバイトと渡英を繰り返し’96年から英ブライトン在住とありますが、そんな世界がThe Blue Heartsの「TRAIN TRAIN」の歌詞“弱い者たちが夕暮れ、さらに弱いものを叩く”を体感していたのかもしれません。

そんな経験をした著者はイギリスで保育士の資格を取る中で身に着けた人権意識の目で日本を見ます。

イギリスでは階級意識が高く社会が分断しているのですが、一方それがゆえに労働者階級にお金がないという事は恥ずかしいことではなく、お金がないと高らかに言える。「貴様らがしっかりやってくれないから、末端は苦しいのだ」と政府に拳を上げる。

今や問題から目をそらし続けてこじらせた日本と、旧態然とした階級闘争を繰り広げるイギリス。どちらがいい悪いではなく、こちらがこうで、あちらはこう…という区別。

その比較論という事になると思います。


わたしは人権というものは「人は神に造られた」というキリスト教の世界で王権神授説なんてものもあった文化と、国造り神話はあるけれど人がどうして生まれたのかという物語のない八百万の神の国文化の違いなんだろうなと思います。

“何に対して平等が”という考え方の基礎の部分。自分の受けた歴史の授業ではイギリスも産業革命の頃は人権なんて全く尊重されていなかったように教えられましたし、フランス革命は軽んじられていた人民の権利を取り戻すための革命。根っこの部分ですべての人は神の前では平等という意識があるので、戦うことが出来、人権を勝ち取ることが出来たのでしょう。しかし神の前では平等であるが、人がそれを勝ち取ら中ればならなかった事実がありますし、差別の問題も認識はされながら残っています。

一方、日本では人が共同体として一緒に生きるための道徳の概念が強くあり、一緒にやっていくうえで何が必要かという行為の前の平等であるため、何をやっていないからという事で簡単に権利がなくなるのだろうな。一方で外部の人には共同体の外の人と見做して寛容に、時に閉鎖的にふるまうのだろうと考えています。

それぞれ人権の前提条件が違うわけです。


日本で草の根運動がうまくいかないことが書かれていますが、そもそも神という絶対的な存在=神の作った世界という地盤がないので根が張れないんだろうなと思います。

その意味でイギリスでは階級が存在し人権を主張しても歴然とした格差が存在する一方、人権が根付いていないとみられる日本で、人権意識の強い国より平等な仕組みが機能していても全く不思議ではありません。

そのような平等は、第二次世界大戦の敗北でアメリカによりもたらされた民主教育が日本独自の風土に吸収された結果であるのかもしれませんが。

2021年4月25日日曜日

【カタストロフ・マニア】島田雅彦 著 新潮文庫 令和2年12月1日発行

 この作品が発表された平成29年5月の時点では東日本大震災の記憶は鮮明でも新型コロナウイルスのコの字もなかったわけで、ワクチンのないウイルス感染により人が死に文明が崩壊するというストーリーは本の帯の「2036年、人類は淘汰される。圧倒的筆力で描く予言的SF長編!」というのも間違いではないでしょう。ただ、圧倒的筆力かどうかは読者の好みによるもので、筆力に関して個人的な感想としてはホント変わらないなと…ただ、本当にいろんな着想がバランスよく配置されています。


太陽のフレアによるコロナ質量放出が原因で生じた地球規模の大停電の影響でインフラが壊滅し、同時に流行した致死率の高い感染病が蔓延する中で政府は命の選別をするが、その実態はAIが人を支配し、選別された人を冬眠させ夢の中へ誘導して生物学的な死へいざなう。

文明を担う・再建させるための人は選別されているわけで、文明の穏やかな死を意味します。


文庫版の巻末に島田雅彦×宮内悠介 公開対談「激動の世界に、虚構の力で立ち向かう」が収録されていて、その中で“前半は終末もので「日本沈没」編、後半はポストヒューマンもので「幼年期の終わり」編”と指摘されていますが、人にとってはAIの暴走、AIにとっては悪意からではなく人が安楽に生きられる場を創出したという点では柾悟郎さんの「ヴィーナスシティ」の世界観にもつながるかもしれません。


人間の文明による地球への負荷が一線を越え、人の住める環境維持が困難となった時、AIはある意味人という種を生き延びさせるために致死率の高いウイルスと、それに対するワクチンを開発するように仕組む。選ばれた人は世界が回復するまで冬眠しながら頭に埋め込まれたチップで制御された夢を見る。しかし実際にはその間、眠り続ける肉体は必然的に死へ向かうでしょう。選ばれた人は、いわゆるVIPや専門家で、当然自分は生き残る側と信じて疑わないわけだけれど。

ワクチンの治験に参加して生き残った主人公は、選ばれる側になることを選ばずに外の世界を生きる…生きる世界はちょっと「日本沈没」と同じ小松左京さんの「復活の日」を感じます。あ、「復活の日」も細菌兵器により多くの人が亡くなり文明が崩壊するお話でした。

ヴィーナスシティでは主人公がAIに勝利しますが、この物語ではAIの作った世界はそのまま、主人公は別に生きていくことになります。

AIは人類を排除することが目的ではなく、まさに持続可能なレベルに強制的に持っていくことが目的だったのでしょう。

現実の社会でも日本の新型コロナ対策は強制力のない方法で終息が見通せませんが、ロックダウンや外出禁止など強制力を以って抑え込んでいる国もあり、緊急時にどのような方法を以って問題に対処するか。どのレベルまでを許容するかが問われています。


先の公開対談の他にも小島秀夫さん、江口直人さん、歌広場淳さん、吉川浩満さんの解説も収録されていますので文庫版の方がお得かも。


2021年1月15日金曜日

払うべき対価

ここ日本では、予測されていた新型コロナウイルスの第3波が到来し、政府は首都圏の4都県に加え7府県へ2回に分けて2度目の緊急事態宣言を出した。

予測されていたにもかかわらず、何をいまさら大騒ぎするのかといえば、第2波が予想されたより小規模であったからかもしれないし、新型感染症の流行は今回が初めてではなく過去の感染症に対しては比較的うまくやってきたという油断があったのかもしれない。

それとともに今回の新型コロナウイルスは世代間により症状に違いがあるとこが喧伝され、自分は重症化リスクが少ないと考える世代の感染防止意識の低さが感染を拡大しているのかもしれない。

 おそらく新型感染症の流行はこれが最後ということはなく、今後も繰り返されるであろうことから、しっかりとした仕組みづくりが求められる。


これまでの新型感染症で多くの人が「経済を止めることはできない」としてきたが政府は緊急事態宣言の発出で一部業種に休業や時短の要請を行い、十分とは言えない補償や貸付を行った。その結果倒産件数は減ったといわれるが、この措置が終われば事業が継続できない会社は増えると思う。

過去最大の支出予算を組んだ政府は、その原資を赤字国債に頼っている上に企業業績や個人所得が上向かなければ税収は落ち込み、国債の利払いのための国債発行に追われ、その結果、行政執行や社会保障に伴う支出を圧迫するため、消費増税は避けられないだろう。

私たちは、経済成長を前提として、あるいは自分もしくは目の前の利益のみを追求してきたところは、その結果を維持することができなくなるという実例を地方都市の衰退という形で目の当たりにしている。

人口減少は、国内消費が減少することを意味するので、この国の経済がシュリンクすることは避けられない。輸出により企業業績は持ち直しても、それに関わる者関わらない者の間で格差が生まれ、国全体の消費金額が落ち込むことは確実だ。

 将来の経済史に「高度経済成長の中で生まれた総中流社会から格差社会のへの移行を加速する出来事であった」と記録される時代なのだろう。

 しかし、それは「公共の利益より個人の利益」という自分たちが選んだ結果である。

 新型コロナウイルスへの対応を見ても世界一対応に成功したといわれる台湾は、民主化を壊さずに達成したといわれるが、日本で導入しようとしても反発が多く実現できないであろう感染者の位置情報の把握や日本のマイナンバーカードのような仕組みの健康保険カードを使ったマスク配布を行っている。

 個人の自由、プライバシーの保護の基準が違うのである。それは国民の政治参加意識の違いにより政府への信頼の度合いが違うという面もあるかもしれない。

 人口減少による経済縮小も、経営者が目の前の業績に固執し、出産や子育てを当然のこととして次世代という将来顧客を生み出せなかった結果と言える。

 高度成長期に「世界で一番成功した社会主義国家」と揶揄された国に、個人の自由という主張が強くなった結果であるのだから、自由を尊重しつつそのバランスを見直すことが立ち直るための手段になるかもしれない。

 しかし今のこの国にそれが期待できるか。仮に行うことを決められたとして、その時に私たちはどれだけの対価を支払う用意があるのか。