2016年10月3日月曜日

経済成長とは

経済成長という言葉がある。国の政策目標でも具体的な数値とともに掲げられるものだ。
生活の利便性を高めるという事は人間の本能的なもので、利便性を高めるにはモノやサービスを生産しなければならず、利便性を高めていけば生産は増大していくため、生産額は大きくなっていく。生産額が大きくなることが成長という考え方。
一方、世界には国という仕切りがあり、その仕切りごとにいろんな事が行われている。
国の経済レベルはまちまちだけど、今は限りある消費を拡大するために経済のグローバル化を目指してその仕切りの経済的な面だけを取り払おうとしているところだ。
すべての仕切りが取り払われれば、究極的にはすべての国の経済は平準化される。生産の最適化が行われる中でモノやサービスの価格や賃金も平準化して行くはずで、その価格は競争の中で低下していくと考えられる。同じ価値を生産しても価格は下がるのだ。
その傾向は、賃金が高い先進国と言われる国でより顕著になるはずで、賃金は消費の原資だから先進国と言われる国が経済成長を続けようとすれば常に新しいモノやサービスを生み出し続ける必要がある。
しかし新しいサービスと言ってもその事により失われただけの雇用が生まれない=消費を増やすことができなければ必ずしもその発達が経済成長につながらない。生産の効率化によって労働コストを削減して利益を上げるモデルや多くの人の労働を必要としないモデルで上げられた収益はそれを共有する人のみに帰属するため、効率化のために必要とされる非正規雇用労働者は消費財と一緒であるから状況によって得られる職や賃金は変動し、収益を十分に共有することはできない。
一人だけがたくさん稼いでも多くの人が稼いだと同じだけの物量を消費するわけではないから、そのモデルでは経済は一定程度以上成長しないと考えられる。すなわち富の偏在は社会全体が豊かになることを阻害し、経済成長を阻んでいるのだ。
 先進諸国で経済成長が困難になっている理由は以上の通りで説明できる。途上国では富の偏在が与える影響が生活改善のもたらす影響より少ないために成長することができるから世界全体でみれば経済成長は続き、多くの企業は途上国の市場獲得に力を注ぐことになる。

 日本で賃金引き上げを政策として行おうとしているが、現在の産業構造では企業の国際競争力を下げることにつながり、国際競争力が下がれば生産過剰が起きて雇用が失われることになる。
 国は国内でしか提供できないサービスや一般化された技術によらない高度な技術を振興させる政策を行わなければならないのは自明のことであり、そのためにはそれを生み出す教育政策が重要なことは言うまでもない。 観光立国という言葉があるが、そこに観光資源があるだけでは飽きられて終わる。また来たいと思ってもらえる環境つくりは社会全体の教育。新たな付加価値を生み出すには学術的な教育が必要であるが、今の日本の社会はそれを行っているだろうか。

2016年5月18日水曜日

社畜になりそうなあなたへ



 社畜という言葉があり、そう呼ばれる人たちがいます。
会社のために自分の心身や生活を犠牲にして働く人たちですが、誰もそうなろうと思ってなっているわけではないと思います。
 会社で働くのは何のためか。理想を持って働き始めた人もいるでしょうし、そうでなくとも誰だって最初は漠然とでも思っていることはあるはずです。例えば、働かなくては生活が出来ないから。
 会社のために身を粉にして働くと言いますが、そもそもそれは何のためか。
私のかつての同僚に社長になるためと言った人間もいましたが、社長とまで行かなくとも「より多く賃金を得るため、より高い地位を得るため」という理由は、そのプロセスを考えれば会社も期待している事だと思います。人によっては「他人の役に立ちたい」、「社会に貢献したい」と考える人もいるかもしれません。単に「目立ちたい」とか、「好きなことをやっていたい」と考える人もいるでしょう。
 しかし、どの理由にしても理由を考えて続けなければ長く働いているうちにその会社で働くこと自体が目的となっていくものです。会社を辞めるのは不安ですし、環境が変わりますからそれに適応するにはエネルギーが必要です。同じ会社に居続ければこれまで積み上げてきたものを改めて周りに示す必要も少なく楽に、見方によっては効率的に仕事が出来ますが、目的は曖昧になりがちです。
 もう一度理由を思い出してください。あるいは考えてください。あなたがそこにいるという事は、会社の求める事とは、本来あなたが働く理由と相反するものではないはずです。
 自分は会社のためにすべてを捧げている。自分がこの仕事をしなければ会社が回らない。お客様に迷惑がかかる。本当にそうなのか。社畜と言われるくらいに諾々と上司の言う通り休みも取らず長時間働くことが会社のためになるのでしょうか。
 会社は社会の一部として様々なルール・法規に従わなければなりません。すなわちルールを守ることが出来ない働き方は会社にとってのリスクに他ならないのです。
そうは言っても職場の上司がそういう働き方を求めてくる事も少なくありません。仕事の種類によっては単純に人がいなければ成り立たないものもあります。しかし、方法を変えることにより効率的にする事が出来るものもあります。
 前者についてはその責任者が人の手配をする義務があります。出来ないのであれば残念ながらその仕事は出来ません。そもそも必要のない仕事(少し前の“すき家”のアルバイト不足問題など)であるか、必要なのであれば社会全体が良い方法を考えるべき(保育士不足問題)だからです。
 後者の場合、単純に仕事を行う事とは別に、その方法を考えることが求められているのです。考えることが仕事をすることの理由につながるはずです。同時にそれにより会社がルールを犯すリスクをなくす事にもなります。
 つまり社畜と言うのは会社のために働く人ではなく、思考を停止して言われるがままに自分を犠牲にして働く人の事を指し、その働き方は往々にして問題を覆い隠して、自分が大切だと思っている会社やお客さまに迷惑をかける行為に繋がるのです。

2016年4月24日日曜日

原発の正体

政府や電力会社は再稼働を進める中で、再稼働に反対する人たち。原発の再稼働について議論が続いている。
再稼働を推進する立場は発電コストの安さ、CO2排出量の少なさ、エネルギー自給率の向上を言い、反対する立場は安全性の問題を主張する。
客観的に判断すれば発電コストが安いと言う事は現在言えない事は明らかなはずなのだけど、これは原発推進をする中で一貫して主張している事だから引っ込みがつかなくなっているのだろう。
例えば、原発の発電コストに含まれる使用済核燃料の廃棄に伴うコスト。これはいくらかかるのか、現時点で確定できていない。
例えば、原発の稼働率。これは事故や不祥事で停まってきた実績を考えれば算定に用いられている稼働率が妥当かどうか。恣意的に操作できる数値である事は否定できない。
日本では世界でも例を見ない核燃料サイクルを前提とした原発推進を行ってきたが、その開発は目途が立っていない。その段階で政策自体を見直す必要があるのだけれど、建ててしまった原発を廃炉にする事は電力会社の存続問題に直結するし、廃炉にした所でその廃材を処理する方法も確立されていない。
つまり発電コストが安くなかったとしても経済的な面から廃炉にするという決断をする事が出来ないというのが実際のところだろう。

“なぜ原発を政策として推し進めてきたのか”
問題の根本はそこにある。
資源を持たないこの国が安定して発電をするために選択したのが原子力であった。
ただ当時から風力、地熱、潮汐力、太陽光という発電方式は検討に上がっていたし、国がこれまで原子力に投じてきた資金をそれらに投じていればそれらの発電方式で安定的に電源供給されていたかもしれない。
なぜそうならなかったのか。
それを明らかにする事は、今後同じ過ちを繰り返さないために必要だ。
太平洋戦争の引き金の一つとなった日本のエネルギー自給に対する危機感。アメリカ企業からの売り込み。そして将来の核武装に備えての技術開発。
いろんな事が考えられるが、それについて語る事が出来る人間が存命のうちに、やるべき事ではないだろうか。

2016年2月1日月曜日

デフレ対策

政府はデフレ脱却=経済成長を政策課題としているが、デフレとは何なのか。正確に定まった定義は無いが、中学校の授業では供給過剰で物価が下落して行く事と教えていると思う。(そう習ったし、端的に言い表せばその通り。)

経済行動が効率化したり合理化されたりしてコストが下がれば、価格に下落圧力がかかり、物価は下がる。
政府や産業界、労働組合が賃金アップを言うが、下がった価格を上げる事は難しい。モノの価格には上方硬直性があるから、値上げが難しいとなればどこで帳尻を合わせるのか。それは労働組合に属さない労働者や零細企業になるだろう。
すなわち、大手の賃金を上げるという事は、それ以外の労働者賃金や収益をスポイルするに過ぎず、経済政策として意味を無さない事になる。これまた政策課題として掲げる格差是正の真逆を行く政策だ。

一般にモノの価格が下がると言う事は効率化や合理化の結果であるから、物価が下がっていると言っていたずらに物価を上げる事を目的とするのは間違った政策とも言える。
なぜデフレ脱却というのかと言えば、物価が下がれば相対的に国債の価値が上がり、返済に窮するという事実もある。

物価はいたずらに下がらないものである。基本は需給関係で決定されるものだから、それを無視して物価上昇を実現しようとしても無理がある。
例えば自動車の月極め駐車場なんて、新潟市内で比較的中心に近いところでも、郊外でも値段の開きはあまり無いという。さらに、さいたま市大宮区の住人に訊いたところ同じくらいだという回答だった。地価は大きく違うにもかかわらず、月極め駐車場の料金に差がないというのは、まさにモノの価格需給関係で決まるものという一例だ。
新型のi-Phoneなんて値段は下がらない。どんなに売れようが値段は下がらない。

つまり、デフレというのは成熟した社会では自然に起こることで、それを金融政策的にどうこうしようというのは本筋からそれた話だという事ができる。
デフレを放置すれば日本は潰れるかもしれないけど、金融政策はその場しのぎでしかない。

デフレを克服するために力を入れるべきは、新しい事業や仕組みを作り、需要を開拓する産業創生だ。

2016年1月6日水曜日

原発交付金は必要なのか

稼働しない原発の立地自治体に対して、その稼働率を以って交付金の支給額を決めるそうである。
河野太郎氏は、そもそも交付金の目的は立地自治体の振興であり、それがなされていないのは疑問という趣旨の発言をしている。

確かに交付金が河野氏の言う趣旨であればその通り。
しかし、原発事故のリスク管理という観点からすると、地元の産業振興なんて本来とんでもない話なんじゃないだろうか。
むしろ真逆で、今となってみれば土地が使えなくなる補償金にすべき。
「原発事故は絶対起きない」という誰が考えてもありえない説明を信じたふりをして、今、自分達の利益になればいいやと受け入れたのが本音のはず。
原発で仕事が増えて地元の産業が潤うかと言えば、そうなっていない。地元の業者に落ちる仕事なんて大した事ないってのが実情だそう。
その中で、振興しなきゃ減らすって言われるのは自業自得かもしれないけど、それならそう言って騙した東電や経産省、政治家たちにもペナルティがあるべきじゃないかな。
事故が起きたら責任を取るという国も、福島の事故で責任が取れているのか。
原発事故は起きたら責任なんて取れないんだって事が身に染みていないのかな。

交付金が地元振興のためならゼロでいい。人口が増えれば万一のリスクも増えるんだから。
振興というならリスク承知でやる原発事業本体でやればいい。
交付金は、その立地により退去しなきゃいけなくなった人に対する対策費で使われるべきだ。